カーニバル その1

カーニバル

今ではBerlin(ベルリン)にうつってしまったドイツの首都も、私の留学していた1995−1997の間はまだBonn(ボン)にあった。ボンはNordrhein Westfalenという州にあり、ユネスコ世界遺産に登録されているあの有名なゴシック教会・ケルン大聖堂が聳え立つKöln(ケルン)や、今では随分日本企業も減ったと言われるDüsseldorf(デュッセルドルフ)も同じ州内にある。

このNordrhein-Westfalen州は、ドイツ最大のカーニバルが行われる事でも有名。これは本当に凄まじい規模。ボンに住んだ経験を持ちながら、このカーニバルに触れないでは済まされんだろってくらい。


カーニバルと言えば、多くの日本人にはブラジル・リオのカーニバルのように派手な衣装を身に着けて町をあげて踊り狂う賑やかなイメージが一番強いと思うけど、本当は宗教的背景がきっちりある。

キリストが受難の後に復活した事を祝うのが復活祭。その受難の前に、キリストの苦難を共有し、罪を償う意味を合わせて断食しようという期間がある(『Fastenzeit』と言って確か46日間)。断食は当然ながら苦しいものなので、それなら目いっぱい肉や酒や甘いものをたんまり堪能してから断食する事にしよう、という訳で、断食が始まる前にチョコや肉を食いまくる→楽しむ→音楽をかけて行進しながら踊る、という背景があるのである。

このカーニバル『Karneval』、語源をたどると「carne vale!』(肉よ、さらば)という事だそうだ。『チリ・コン・カーン』という料理が確かアフリカ料理にあったが、肉と豆の煮物だったので、なるほど「カーン」がcarneで「肉」なんだな、と勝手に納得した記憶がある。


せっかくなので、記憶が薄れない為にももう少し詳しく記しておかなくちゃ。


復活祭前の断食が始まるのは「Aschenmittwoch」(灰の水曜日)。カーニバルが始まるのは、逆算してその前の6日間。
その前の「Weiberfastnacht」(木曜日)に始まり、「Rosenmontag」(ばらの月曜日)、「Fastnacht」(火曜日)で幕を閉じる。間の金、土、日はたいしてお祭り騒ぎはなかったような気がする…(・・?


ドイツに着いて、大学付属の語学学校に通い始めてまだ間もない時期にこのカーニバルを迎えたので、Weiberfastnacht(お祭りが始まる木曜日)の朝、先生が楽しげにこの伝統的習慣について話してくれた事を今でもよく覚えている。それは日本人の私にはあまりに衝撃的だった。


Weiberfastnacht(木曜日)というのは、訳すなら云わば「女のカーニバル」ヽ( ̄▽ ̄)ノ
内容はまた次回。


それにしても、日本のクリスチャンはカーニバルなんてしないなぁ。
もっとも、この国の国民性には全くそぐわないけど。

ドイツの大学に入学するという事

ドイツの大学には日本で一般的な「大学入試」なるものがない。


高校(ギムナジウム Gymnasium)の終了試験(アビトゥア Abitur)に合格すれば、それが同時に大学への入学資格として認められる。
これは海外からの留学生でも同じ扱いで、私がドイツの大学に入りたいと思っても「入試」とされるものは存在しない。
だが、ドイツ人と同じく高校の「卒業証明書」と「成績証明書」は提出しなければならない。また、ギムナジウムと高校のシステムの違いから、日本の大学の証明書も必要となる場合が多い。
留学希望者は、入学したい大学に個人で問い合わせて必要書類をそろえ、個人で直接申し込むことになる。


ところで留学希望者は、大学入試を受ける必要がない代わりに、ドイツの大学で講義を受けて理解できる程度のドイツ語力を証明しなければならない。
そのためには、ゲーテ・インスティテュート(Goethe Institut)のドイツ語上級統一試験(ZOP)の合格証明書が必要となる。
昔はZMP(中級レベル)でも認められたらしいが、今は上級が要請されるらしい。難しいよ、コレ(>_<。


この試験を受けていない人は、大学で実施されるPNdS(現在のDSHに相当。外国人対象の大学入学ドイツ語能力証明試験)に合格すれば良い。こちらは公的な資格として通用するものである。


留学当初から頑張ってきたのは、すべてこのPNdS(現在のDSH)に合格するためであった。
これに合格しない事にはドイツの大学で学ぶ、という本来の留学目的は達成されず、その前段階で終わることになる。


PNdSの1次試験は文法問題、長文読解、聞き取り。これを突破すると2次の口答試験が受験可能になる。
大学付属の語学コースに入り、基本的な文法項目や応用した使い方などを勉強したが、上のクラスに上がって本格的にPNdSの準備に取り組みだしてからは本当にハードだった。
やっぱり日本人だけあって、Hörverständnis(聞き取り)が一番ツラい。この項目は、先生が長文を2回読むのを聞いた後、その内容をドイツ語でまとめて要約するというもので、慣れるまではさっぱりできなかった。やんわり内容が理解できたとしても、それを自分のドイツ語で再建!?ムリムリ。まっっったく無理。
こんなの日本の学校では(英語の授業でも)やった事のない方法で、聞く力と同時に表現能力も鍛えられる実に有意義な試験のひとつだと思う。
長文をリスニングした後に、問題に答える、とか、正しい解答を選ぶ、などとはまるで違う次元の難しさだと思う。
リスニングで聞こえてきた表現を一字一句メモるのは到底不可能なので、常にボキャブラリーや熟語を増やすよう心がけ、自分の中にいろんな表現方法を地道に蓄えていかなければならない。覚えた表現は意味が分かるだけではなく、自分で使えるレベルにまでもっていかなければ話にならない。


とにもかくにもこの項目のレベルを向上させるためには、地道な努力と一種の「忍耐」が必要だった。


続く・・・

人生で10分だけの出会い 後編

10分だけの出会い

ある日1通の手紙が届いた。

差出人は今や名前も忘れてしまったあの時のアメリカン・ガイ。

本当に手紙くれたんだ。

外国にいると自分宛ての手紙は本当にずっしりとありがたい。

何の期待もしてない相手でも嬉しくて心がワクワクする。

ん?誰々?誰だ、この名前?おぉ、あん時のアメリカ人だ。本当に手紙書いてくれたんだ。

封を開けると、ブルーのペンで書かれたブロック体の文字が目に飛び込んできた。

一文字一文字が大きくて、いかにも字を書き慣れていない感じ。うん、ばっちり予想通り(笑)

初めての手紙なのに、つたない文字でつらつらと自分の事がたくさん書かれていた。文字のせいか

人柄なのかは知る由もないけど、シンプルで純粋な印象が強く残る。

一般的な褒め殺し文句に始まり、今はアーミーにいるけど、アメリカに戻ったら何歳くらいで結婚して

大きな家に住んで子供が欲しい、みたいな内容が書かれていたのがうっすら記憶にある。

電車で声かけた女の子に送る最初の手紙としては、えと、随分一方的な内容ですね(・・;

でも深読みしなければ至って一般的で平凡で普通の想いであって、それだけに余計この人が

純粋なアメリカ人青年に思えた。



さて、返事を書こうか否か?



まぁこれも人生の出会いのひとつ、と筆を取った。(メールなんてないし)

英語は随分離れていたので辞書を引きながら苦労して書いた。

彼のような一方的な内容も女側がやってしまうと興ざめな気もするし、大体みっともなくも思えたし

第一そういう勘違いは何より恥ずかしい。表面的であたりさわりなく、さりとて全く関心がない訳でもなく

微妙にニュートラルな返事。(そういうのお任せあれ♪ヒヒヒ)

結局、何度くらいやりとりがあったんだろうか。もう忘れてしまった。

だんだん手紙を書く期間がどちらともなく長くなって、そのうちお互いに書かなくなってしまう。

ある時、ふと思い出して葉書きを出してみたけど、ほどなくして寮に舞い戻ってきてしまった。

少し寂しい気もするけど、だからってどこも何も傷つかない。

そんな人生のワンクロス。


今思えばちょっと素敵かも☆

人生で10分だけの出会い 前編

ウクライナ人の友達と、Nürnbergのクリスマスマーケットを見に行こうと一泊計画で出かけた。この街のクリスマス市はドイツで最も有名で大規模なもの。飾り方もハンパじゃない。その様子は圧巻で、外国人にはもってこいだ。


週末だけ載り放題のWochenende Karteを利用して安く旅するのは基本中の基本。確か当時15マルクで4人くらいまで一緒に使えたような(・・?(1DM=80円だったとして、1250!!!)

当然乗車可能な列車はローカル線のみ。ちんたら遅いけどライン川を下っていくだけだから気が楽だ。旅の友がいるから退屈もしない。それに何故か私はヨーロッパでの列車移動が本当に好きだった。むしろ遅い列車を好んでいたかもしれない。一人っきりでの移動でも列車が好きだった。じっくり本を読みふけってもまだ着かない。外の景色を眺めていても貴重な時間を実感した。


ヨーロッパの列車の窓から見える景色は、どれだけ住んでもやっぱり日本人の私には異国情緒だった。それはその時見える景色を超えて、映画や本で出会ったいろんなヨーロッパの歴史が蘇るからだと思う。それに実際、あちらの街づくりは中世の雰囲気を大事に残すべく行われている。


ところで一度トイレに立って席に戻る途中、アメリカ人(発音で即認識。欧州でアメリカ英語は滅多に聞こえてこないから耳が反応したね)guyの2人組みと一瞬目があった。全く何の意図もなくホント一瞬だったんだけど。その時、1人が何か反応したのを瞬時に察知した。(それもどうなんだ)


面倒臭い事になったら面倒くさいので気づかぬ振りして席に戻ってきた。


案の定、席に座って1分くらいで二人そろって私を見つけ出した(p_q)
ウクライナ人の友達は「Shoko?(アナタに用事みたいよ?)」と目くばせ。



それにしてもアメリカ人って何て直球なんだろう。関心しちゃう(@_@;
「さっき横通ってっただろ?」てな始まりで。



私はちょっと、いや、かなり警戒していた。背は高くないけど端整な顔立ちで妙にカッコ良かったし。しかも、キャップかぶって身なりが超アメリカン。アメリカンカジュアルってもはや世界標準って言うけど、本物がすると逆に「最もうまくマネしている人」みたいに見えるから不思議。しかも英語まで激アメリカン。

アメリカって国はつくづく不思議で、世界的に見ても奇異な存在だな。(悪い意味でなくて)



何しろドイツ語の生活に慣れていた私の耳に、アメリカンカジュアルに身を包んだアメリカ英語を話すアメリカ人はちょーーーーーー軽く思えた。それだけでうざかった。(顔はカッコよかったけど)


でも興味を持たれるのって、人間やっぱり気分いいもので(笑)。
住所と名前を書いた紙切れを手渡して手紙を書くことに。
(あの時私も渡したのかなぁ。じゃなきゃ、相手の連絡先もらっても私から手紙書いたとは思えないもんな。やっぱ渡したんだろうなぁ)



私達が目指すはNürnbergで、そのguysはBambergの米軍基地へ戻る途中だったとか。



それすら私は信用してなくて、紙切れの住所も名前も全部うそだったりして、などと最後まで警戒していた私だけど後日ボンの自宅に、そのアメリカンガイから本当に手紙が届いて初めて信用したのだった。

オランダまで夜のドライブ

学生寮は学生が住んでいる。
大学のシステム上、日本の大学生より専門意識が強く、常にレポートや試験に追われて勉強熱心だ。・・・されど学生。社会人とは違う時間が流れている点は変わらない。

ある日の晩。共同キッチンにいたらLay(ライ)が入ってきた。
あれは確か9時頃だったかなぁ。


「ヒマだね」
「どっか行こか」


私達はその時間からLayの車でKoblenz(コブレンツ)方面に向かった。
Layの好きなクラブがあるって事で、ガラガラの道をかっとばしてクラブへ行った。
ギラギラと眩しくて騒がしいとこで、さんざん踊り倒して店を出てきたけど、まだ満足しない。どっちも家に帰るつもりなんてさらさらない。


「Koeln(ケルン)行こうか」
「行こう行こう」


私達はそこから再び来た道を戻り、寮のあるBonnを通り過ぎてKoelnへ向かった。
適当に車を停めて町をぶらぶらと散歩しながら、ふと目についたカラオケバーに入った。何やら異様な雰囲気だ。大勢の人達がバーに集いながら、カラオケ機材は一つしかなくて、みんながそれに注目して順番待ちしている。お酒を飲みたいというよりカラオケがしたくてしたくて町に一軒のカラオケバーに殺到、みたいなイメージ。私達も予約して1曲歌えるまでに1時間くらい待ったんじゃないかなぁ。


息苦しくなって店を出て、またどこかのクラブで少し踊ったけど・・・まだ満足しない。一体どうしちゃったんだろう?冒険心?何が起こるか分からないこのワクワクが、きっとたまらなく新鮮だったんだ。


ヨーロッパの街角で、「さぁて次は何する?」と後先考えずに行動している自分がとても滑稽だった。冷静に考えて不思議でもあった。でもこの時は「Go!」という気分を優先したかった。Layも期して同じような冒険心に襲われてたんだろうな、きっと。うまく波が重なったから、こんな突飛な行動が対した疑問符もなくスムーズに運んだんだろうな。


だが、さすがに次のアイディアには2人して我に返って爆笑した。


アムステルダム行く?」
「は。」


さすがに遠いって。ボンからケルン行くのとは訳が違う。しかも国越えするんだよ?
これが大陸なんだ。外国の観念がまるで違う。

結局、アムステルダムまで車を飛ばして街中を散歩し、橋から川を眺めながらあーでもないこーでもないとずーーーーーっとくっちゃべって、歩き疲れたから、と軽くビールを飲んで(※私はノンアルコール)またおしゃべり。一体何を話していたんだろう。会話の内容はひとっつも記憶に残っていない。ただアムステルダムの町がコブレンツやケルンよりも何倍も明るくて、日本の夜を思い出した事だけが鮮明だ。


ここまでやると二人ともようやく心地よい疲れと共に冒険心が満たされて


「そろそろ帰ろうか」
「そだね」


ようやくノーマルな感覚に戻ってきた。
車でBonnまで戻る途中に空は白々と明け始め、Onckenhausに着くと寮で一番早起きのももちゃんが朝ごはんを食べに降りて来た(笑)



「おはよう」
「おはよう」
「おやすみ」
「おやすみ(笑」



再び共同キッチンで時計を見たのが朝の5時半。



人生でもきっと忘れることのないこの日の冒険。
Layしか知らない私の不思議な冒険心。

お掃除のバイト


ドイツにいる間結局最初から帰国するまで引っ越すことなくずーっとお世話になった学生寮は、キリスト教団体のサポートで提供された所で、学校が斡旋するリストに載っている寮だった。学生寮の中でも安い方だったが、部屋が狭くてキッチン・トイレが共同、ってあたりがその理由だろうか。超ジャンボサイズのジャーマンピーポーに比べれば小学生みたいに小さい私には、狭いといっても全く苦にならない空間だった。苦にならないどころか、私にとっては生まれて初めての「城」とも言える自由空間だった。

さてこの寮では「お掃除」がバイトに代わるシステムになっていた。
決して高くはないが、寮の床をモップで磨いたり、テラスの掃き掃除をしたり、あちこちをこまめにキレイに掃除する事に対して報酬が支払われる。基本的に苦学生ばかりなので、常にこのバイトを希望する人は絶えないもので、おかげで寮はいつもピカピカだった。

こういうシステムって日本でもあり得るんだろうか。
合理的ってこういう事言うんだと思う。
学生寮だから学生間でお掃除係を回し、それに更に報酬がつくシステムになれば
当然スムーズに進む。各国から学生が集まっているし、お金が少し必要になった時にわざわざS-Bahnに乗ってどこかまで出かけなくても、寮内でバイトができれば助かるという状況も想像しやすい。

日本人の学生が日本の寮で掃除をする。
想像し難いのはなぜだろう。
どこに原因があるのだろう。

Neinと伝えるコト

これは「ドイツ」に限ったことではなく、西側諸国(もしかしたら他の地域でも)全体に当てはまるだろうが、否定語即ち「Nein」を口にすることは何と容易い行為だろうか、とつくづく思う。


どうしてこんなに「Nein」と言い易いの?この違いはなんだ?
どうして私はこの言葉を発する時に何の躊躇いも戸惑いも罪悪感も感じないでいられるんだ?


実際に発してみてその原因を突き詰めてみたい欲求にかられて、「Nein」を連発したくなる時期すらあった。楽しかった。私はこの環境を大いに楽しんだ。

何かの分野に秀でている人が、全く別フィールドで自分の得意分野の専門用語を並べ立てれば当然浮くだろうし、共感者も得にくいだろうが、同じフィールドの仲間相手なら専門用語をいちいち並べ立てた所で嫌味な感じもしないだろう。


私は見た目思い切りアジア人でも、ドイツに身を置く限り「Nein」と堂々と発言して良かった。誰も「え?キツッ」とは受け取らない土台がそこにはあった。「堂々と言っても良い」どころか、まず白黒はっきりする事が求められているように思える。


前回の「主張」につながる事なのかもしれないが、「Nein」という発言はその人の「意見」であり尊重すべきものなのだと思う。日本語でハッキリ否定しようと思ったら、いかなる単語を選んでも「相手を否定」するニュアンスが生まれてしまう。どうにも避けられない。



自分の知らない環境や、そこで生まれる常識というのは想像を超える。
雑誌やネットやラジオでは決して見えてこない異文化エキスが現地には詰まっている。
人生知らない事だらけ、と認識しておくのは「常識」(笑)